第一回 思い出の町屋 其の一 |
作者 水井康之 | |||
ちいちゃい頃は、何やら暗くて恐いとこやなあと、うっすら記憶に残っていた家があります。 京都のずっと南のほうの田舎で育った、小生がまだ西も東も分からない頃、親に連れられて、これからこの家に入るさかいに、あれもしたらあかん、これもしたらあかん、と「いつもの悪さをしたらあかんで」とさんざん注意されてから、「こんにちは」とその家へ入らせてもらって、借りてきた猫のようにおとなしくしていて、ほんまにおもろないとこやなあ、と思ったことを覚えています。 それから、もう少し大きくなって、物事が分かる年の子供になってから、(時は終戦の少し前だったと思いますが)その家に連れていってもろて分かったのです、そこは、小生の伯母の家で、表は仕舞屋(しもたや)風ですが、手広い商売をされている、今で言う典型的な京の町家という家構えで、田舎の長屋で育った、はなたれ小僧には、ようこんな大きな薄暗い家に、人が住んでいるなあと思ったものです。 そんなお家にちょこちょこ遊びに行くようになったのは小学生の高学年の横着坊主の時でした、その家の伯母や年上の従兄が、小生をよく可愛がってくれた思い出があります。
それからしばらく年が経ち、小生も腕白時代を少し過ぎて高校生の時、しばしば伯母の家を訪ねるようになりましたが、もうその頃には伯母もいなくなり、年上の、といっても六つか七つほど年が違ったと思いますが、いとこの兄妹が住んでいました。そこへ小生が転がり込んで、昼間の留守番を兼ねて居候をしていたことがあります。 そもそも京の町家は、かど(玄関)から一番奥の「はなれ」まで、下駄を脱がずに履いたままで行くことが出来る便利な「通り庭」という土間が通っているのです。
(京都市中京区堺町二条上ル亀屋町172 TEL075-223-2072) というような、便利さのためだけの「通り庭」ではなく、件のオッサン(小生のちっちゃいときに、ちょこちょこお寺や神社の、お参りに連れていってくれて、京都の昔話や、そのお寺や神社の故事来歴を話してくれたなんでもよく知っている叔父のことを件のオッサンと呼んでいます)が言うことには、 「もっと深刻な理由があったのや。
それはトイレの問題で、京の町家のトイレは座敷からの上用と、庭からの下用があり、両方とも通り庭の奥にあった。そして昔は『通り庭』から汲み取りが出来るようになっていたのや。勿論裏口のある家は別やけど、ほとんどの町家は建て詰まっていて、玄関しか出入口があらへんさかい」 「京都の上水道は、琵琶湖疎水のおかげで、明治の終り頃にはかなり普及してたんやが、下水道は昭和九年に吉祥院下水道処理場、昭和十五年に下鳥羽下水処理場が完成して、トイレの問題がぼちぼち解決してきたのやが、それまではこの『通り庭』がないと奥にあるトイレの汲み取りがでけへんやろ。そら他にも大事な役目があるかも知らんが、トイレのことが一番やで」 京都の町家の「通り庭」がトイレのためにあったとは、ほんまかいなと思いますが、ほんまはこういうことやで、と知ってる人が居られましたら、教えて下さい。お願いします。 小生の育った長屋でも、「通り庭」になっていて、町家と同じことが言えました。 |
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