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五月~たいしょうさん プリント メール
作者 たきねきょうこ   

飾り兜 五月晴れに木漏れ日が揺れて、皐月。

 榎や楡の幾重にも枝を違えた緑陰は、その濃淡からまた、生い茂る下草の種類を微妙に変えていきます。カラスノエンドウにイヌフグリ、蓬やスカンポからドクダミまで、どれも、幼い日に遊んだ馴染み深いものばかり。

 五月五日の「こどもの日」も、京都では床の間に据えられる武者人形のお飾りから、「大将(たいしょう)さん」と呼ばれて、古くから人々に親しまれてきた馴染み深い行事のひとつ。

 この日は、「端午の節句(たんごのせっく)」とも呼ばれていますが、この「端」は「はじまり」を、「午」は「ウマの日」を意味し、「この月はじめての午の日」を表しています。また「午(ご)」は「五」に通じることと、奇数の重なりを節目として祝った陰陽道の影響から五月五日を「重五(ちょうご)」の日として端午の節句日と定め、奈良時代以降、邪気を祓い延命を祈願する節句行事が、宮中を中心に広まっていきました。

鯉のぼり この日、いにしえ人は「薬狩り」を催して、萌え出したばかりの銀色の葉裏も柔らかな蓬や葉先の鋭い菖蒲などの薬草類を摘んで、終日を野で過ごしました。
また春、新たに生え変わった鹿の若角を採って陰干しにし、これを「鹿茸(ろくじょう)」と呼んで、百薬の長としても珍重したとか。

 特にサトイモ科の常緑多年草で水辺近くに自生する菖蒲は、その鋭い剣状の葉から強い香りを匂い立たせることから、災厄を退け、不浄を祓う強い霊力が備わっていると人々に信じられ、次第に五日は「菖蒲の節句」とも呼ばれるようになっていきました。
人々は菖蒲を家の軒下につるし、屋根を葺き、髪にさし、枕の下に入れ、また細かく刻んでお酒に入れては、菖蒲酒としてその香気に酔ったのだとか。
私たちの身近で残っている慣わしごとといえば、「菖蒲湯(しょうぶゆ)」くらいでしょうか。今でも町のお風呂屋さんでは五日、「しょうぶ湯あります」の札がかけられ、麻ひもで結わえられた菖蒲の束が湯船にいくつも浮かべられて、湯気とともに天井まで香り立っていきます。ご年配の方々は、その葉を抜いて痛む身体の節々に押し当てたり、鉢巻のように頭に巻いて頭痛封じのおまじないにしたり。おだやかな時代の懐かしい光景が、湯気の向こうにかぎろい立っているようです。

 この「菖蒲」はまた「尚武」に通じことから、平安期に近衛府で催されていた騎射(うまゆみ)や、鎌倉期に武士階級の台頭によって盛んに行われた「競馬(くらべうま)」とあいまって、男子の健やかな成長を祈るお祝いの日として、勇壮さが強調されていきました。室町時代には早くも「兜人形」が作られ、江戸時代の中頃になると中国の故事「鯉変じて龍となる」にちなんで、「鯉のぼり」が作られて、男子の栄達を祈願して、戸外に飾られるようになっていきました。
鯉のぼりの上で薫風に揺れる五色(青・赤・黄・白・黒)の吹流しの色目も、五行の摂理からそれぞれ「木・火・金・水・土」を表していて、魔を祓い、呪を固める強い霊力で下に泳ぐ鯉たちとともに、その家の中ですこやかな寝息をたてて眠る幼な子を、今も静かに守り続けているのです。

神馬 この日、北区の上賀茂神社では、「賀茂競馬(かもくらべうま)」が催されます。寛治七年(1092年)に五穀豊穣を祈って始められたこの神事、競馬会(くらべうまえ)の後二頭一組の馬が、一の鳥居にある「馬出しの桜」から「勝負の紅葉」までの約四百メートルを競い合いながら疾駆します。
途中「見返りの楓」では乗尻(のりじり=騎手)が馬場殿に顔を振り向けながら走るという見せ場もあり、喝采と歓声が埒(らち)の外側からどよめきわたっていきます。

 その他にも伏見区の藤森神社の「駆馬神事(かけうましんじ)」など、京都のあちこちで尚武にちなんだ勇ましい神事が繰り広げられます。



 
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