作者 たきねきょうこ
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ページ 1 of 2 このところの秋雨に、ご近所の紫式部の実もすっかりたわんで、内側から紫水晶の明かりを、一粒ずつに灯したよう。 もう少し秋が深まって、この熟れた実が枝先からぽろぽろとこぼれだすごと、また一雨ごとの肌寒さが増すごとに、待ち遠しくなるのが、暖かいこたつやヒーターのお座敷入り。
そういえば、江戸時代から京都では、陰暦十月の亥の日に、こたつ開きをする決まりがあったのだとか。お茶の炉開きもこの亥の日と決まっていて、半年間使ってきた風炉への別れを惜しむ想いいを込めて、十月を名残月(なごりづき)と呼ぶのだそう。
そして、この亥の月、亥の日、亥の刻にお祝い事を催し、無病息災・子孫繁栄を祈る祭事が、亥の子祭りです。 中国より伝わったこの習わしは、古くは「亥の子の祝(いわい)」とも呼ばれ、平安時代から江戸時代に至るまで、宮中でも粛然とした儀式が執り行われていました。 また、このお祭りは、秋の収穫祭のひとつとして、山より下り、稲の生育を育み、豊かな実りをもたらしてくださった田の神様が、再び山へお戻りになる日とされて、西日本を中心に、村々でもさまざまな行事が行われていたようです。
この日に行われた「亥の子突(つき)」または「亥の子槌(つち)」は、石をくくりつけた何本もの縄や硬く固めた縄の束で、子供たちが唱えごとをしながら土を打ち、田に住まう神様を、鎮守の森を従えた御座所のあるお山へ、囃しながら送りたてるというもの。
晴れ渡った秋空に、子供らのよく通る澄んだ声が木霊となって、それは、これから春までお山でこもられる精霊たちにとっての、なによりにぎやかで、あたたかい見送りになったことでしょう。 そして、その聖なる山々を住処として、闇の山中を縦横に駆け巡る、猪たち。 多産な猪は子孫繁栄の象徴とされただけでなく、次第に人々から、山の神様の守り手やお使いとみなされ、火を司る山の神それ自身と重ねられて、広く畏れ敬われるようになっていきました。 やがて、猪が亥に通じることから、人々は、亥の日にはじめての火をこたつや炉に入れ、火の神の加護を祈り、火難から免れられるよう、家内繁栄の大切な礎として畏怖して、その習わしごとを守り、伝え続けました。
上京区、烏丸下長者町を下がった西側にある、護王神社では、十一月一日に亥の子祭りが古式ゆかしく執り行われます。 祭事は夕闇迫る午後5時から営まれ、本殿での祈願祭の後、舞殿で「御春(おはる)の儀」と呼ばれる三種(赤・白・黒)の亥の子餅がつかれ、神前にお供えされます。すっかり宵闇にまぎれる午後6時半、つきあがったばかりの亥の子餅は唐櫃に納められ、蛤御門(はまぐりごもん)から清所門(せいじょもん)へと、御所への献上に列をなして、厳かに進みだします。手に手に提灯を掲げた平安装束の行列は、御所の深緑の森に影絵のように揺らめいて、王朝絵巻さながらの幽玄さ。そして神社へ帰参された後は、打って変わった賑やかさで「亥の子囃(いのこばやし)」を歌いはやしながら、斎庭でのお餅つきがはじまり、やがて集まった参拝者らに授与されます。
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