では、現在の本能寺は誰が再建したのでしょうか。
現在の、ではありませんが、現在の位置に再建したのは豊臣秀吉です。
本能寺の変よりわずか5年ほど後のこと、羽柴秀吉は九州征伐を終え、本格的に洛中復興に乗り出します。
当時の平安京東端である「東・京極通り」に洛中の寺社を移し、現在の寺町通りの基礎を創り上げます。その際、かつての主君である織田信長および戦死者の菩提を弔うため、寺町御池の地に本能寺を再建しました。これが現在の本能寺の地となり、本能寺は二度移転されています。
境内には本堂の他、信長公を奉った廟や戦死者の墓所が存在し、一見するとここが遭難の地にも見えます。信長公の墓碑も存在しますが、当然のことながら中身はありません。
その後何事もなく、といいたいところなのですが、明治維新を間近に控えた1864年、蛤御門の変にて京都が再び戦乱の舞台となった際、砲撃によって本堂は大破し、長州藩邸からの出火によって消失してしまいます。最後の再建が終了したのは1928年(昭和3年)のことで、現在の本堂はその頃からのものということになります。
しかし、平安京遷都より1200年が過ぎましたが、京都というところはつくづく建物が長持ちしない土地です。豊臣秀吉公がいなければ、今頃どのような町並みになっていたのか、なかなか興味深いというか、恐ろしいというか…